維盛をのみこみし水澄みにけり 仲寒蟬

http://www.shigin.com/hiroaki/tora-dokusyo-01-08/Chapter_9/03.htm ── 女 た ち の 源 平 恋 絵 巻 ──横 笛 乱世の世に消えた儚い恋】より

 極楽往生のさまを聞き維盛入水

維盛これもり は平重盛の嫡子で、ゆくゆくは平家一門を統率すべき立場にあった。安元あんげん 二年 (1176) 三月、維盛は後白河院の五十の賀の宴で 「青海波せいかいは 」 を舞い、その美しさは光源氏もかくやと思わせるもので、 「桜梅少将」 と称賛された、建礼門院右京大夫うきょうのだいぶ も、その歌集の中で、この時の維盛の美しさを称え、 「世にも稀なお顔立ちといい、お心配りといい、本当に昔も今も私の知る限り、たとえようもなく素晴らしい御方でした」 と記している。維盛は笛の名手としても知られていた。

治承じしょう 四年 (1180) 、二十三歳の時、維盛は頼朝追討の大将軍に任命されるが、富士川の合戦で水鳥の羽音に驚いて遁走とんそう し、戦わずして敗れてしまった。福原の新都に戻ると、敗戦の報に激怒した清盛は 「維盛を鬼界きかい ヶ島へ流してしまえ」 と口走るほどだった。しかし、翌年には、尾張で源行家軍に大勝して面目めんもく をほどこしている。寿永じゅえい 二年 (1183) 四月、義仲追討のため大軍を率いて北陸に向かうが、倶梨伽羅くりから 峠で義仲軍に完敗する。一気に都に寄せて来た義仲軍を前にして、平家は政権の拠点とした六波羅に火を放って焼き払い、西海へと下って行った。そのとき維盛は、十五歳の時に結婚した二つ年下の北の方 (権大納言藤原成親なりちか の娘) 、十歳の六代ろくだい 丸、八歳の姫を都に残していた。

寿永三年 (1184) 二月七日、一の谷で敗れた平家の武将たちの首が都大路を引き回されて獄門にかけられた。大覚寺に隠れていた維盛の妻子は嘆き悲しんだが、使いをやって確認させたところ、維盛の首は見当たらないという。聞くところによれば、維盛は都に残してきた妻子を思う余り病気になり、一の谷の合戦には出ていないという。

そのころ、屋島にあった維盛から妻子を気遣う文が届いた。その文末には次のような歌が添えられていた。

いづくとも 知らぬあふせの もしほ草  かきおくあとを かたみとも見よ

海に漂う海藻かいそう のように何時いつ どこで逢えるやも知れない私が書いたこの文を、形見と思って見なさい。この文に対して北の方は泣く泣く返事を書いた。子供たちにも思うところを書きなさいと言えば、 「大変恋しく、思っておりますので早く早く迎えに来てください」 と二人して同じ言葉を書き連ねた。

こんな手紙をもらってはどうしようもない。都に残した妻子恋しさに、維盛は三月十五日の暁に、三人の従者を伴って密かに屋島を脱け出した。阿波あわ の国から紀伊の国へと渡ったものの、都へ入ることができず、やむなく高野山に登った維盛は、そこでかつて重盛に仕えていた滝口入道に再会するのである。

高野山で出家した維盛は滝口入道の先達せんだつ で熊野三山くまのさんざん に参詣する。最後に那智の滝にたどり着いた一行は、小舟に乗って大海へと漕ぎ出して行く。それでもなお妻子への妄執もうしゅう が断ち切れぬ維盛は、 「無常なる人の身に、妻子などというものは持つべきではなかったのだ」 と詠嘆えいたん する。滝口入道はいかにもあわれと思ったが、ここで自分まで気が弱くなってはと、ひたすら極楽往生のさまを説き聞かせ、鐘打ち鳴らして入水をすすめたので、ついに維盛は 「南無なむ 」 と唱えて海に入った。二人の従者もあとに続いた。

この世の出来事はすべて無常を悟るための契機であるろし、それを悟った者の発心ほっしん と往生を 『平家物語』 は飽くことなく説くのである。ことに恋の挫折は格好かっこう の機縁と見なされた。滝口入道と横笛も、文覚上人もんがくしょうにん と袈裟御前けさごぜん も、それ故の悲恋であった。恋が成就じょうじゅ したとしても、それがもたらす妻子の存在が、また往生のさまたげになるのである。

維盛の弟資盛すけもり の恋人であった建礼門院右京大夫が維盛の入水を伝え聞いて詠んだ歌は、次のようなものであった。これには解釈はいるまい

かなしくも かかるうきめを み熊野の  浦わの波に 身をしづめける

著:高城 修三  発行所:京都新聞出版センター ヨリ


https://ameblo.jp/1994199820022006/entry-12525517546.html【『平維盛の入水』】より 

美男美女の多い『平家一門』を問わず、当時の『宮廷』にあって『光源氏の再来』と称された

『平氏一門の嫡流』・平維盛 ‼。。美貌の貴公子だったそうで、「今昔見る中に、ためしもなき」「容顔美麗、尤も歎美するに足る」などと評されていたらしい。

後白河法皇50歳の祝賀では、烏帽子に桜と梅の枝を挿して『青海波』を舞い、あまりの美しさから『桜梅少将』と呼ばれた。

本足跡

維盛少将出でて落蹲入綾をまふ、

青色のうえのきぬ、

すほうのうへの袴にはへたる顔の色、

おももち、けしき、

あたり匂いみち、みる人ただならず、

心にくくなつかしきさまは、

かざしの桜にぞことならぬ。

『平家物語』…【平維盛の入水】

 さて、『熊野三山』を詣でた平維盛

(たいらのこれもり:1158年~1184年)の一行……

 『熊野三山』の参詣を無事にお遂げになったので、

『浜の宮』と申す『王子』の御前から一葉の舟に棹さして、万里の蒼海にお浮かびになる。

遥か沖に山成(やまなり)の嶋という所がある。

それに舟を漕ぎ寄せなさって、岸に上がり

大きな松の木を削って、中将の名札を書き付けられた。

「祖父太政大臣平朝臣清盛公、法名浄海(じょうかい)、

親父内大臣左大将重盛公、法名浄蓮(じょうれん)、

三位の中将維盛、法名浄円(じょうえん)、

生年27歳、寿永3年3月28日、那智の沖にて入水す」

と書き付けて、また沖へ漕ぎ出しなさる。

 決心していたことではあるが、今際のときになったので、気が滅入るようで悲しくないということはない。

頃は3月28日のことなので、海路は遥かに霞わたり、

あわれをもよおす類いの景色である。

ただ大概の春でさえも、暮れ行く空は物憂いものだが、ましてや今日を限りのことなので、気が滅入ったことであろう。

沖の釣り舟が波に消え入るように思われるが、

さすがに沈みはしないのをご覧になって、

自分の身の上はと思われたのであろうか。

 雁が北国を目指して飛んでいくのを見ても、

故郷の妻子への便りをことづけたく、また蘇武が雁に手紙を託した悲しみに至るまで、思いやらないことはなかった。

「これは何事か。今なお妄執が尽きないとは」

と思い返しになって、西に向かって手を合わせ、

念仏なさる心のうちでも、

「すでにただ今が自分の最期のときであるとは、

都ではどのようにかして知っているだろうし、風の便りの言づても、今か今かと待っていることだろう。

自分が死んだことは最期には知れることだろうから、この世にないものと聞いて、どんなにか嘆くであろう」

などと思い続けられなさったので、

念仏を止めて、合掌の手を崩して、『聖』

(※滝口入道。

もと、平重盛に仕えていた武士、斉藤時頼。

恋人・横笛への思いを振り切るために出家し、

女人禁制の高野山で修業を積み、大円院第8代住職となった。※)に向かっておっしゃった。

 「嗚呼、人の身に妻子というものは持ってはならないものであるのだな。この世でものを思わせられるだけでなく、後世菩提のさまたげとなる口惜しさよ。

ただ今も思い出しているぞ。このようなことを心中に残せば、罪が深いと聞いているので、懺悔するのだ」

 『聖』も哀れに思われたけれども、自分まで気が弱くなってはできなくなるだろうと思い、涙をこらえ、

そのような様子は見せずに相手して申し上げた。

 「まことにそのようには思われましょう。

身分の高い者も低い者も、恩愛の情というものは人の力でどうこうできないものなのです。

なかでも夫婦は、一夜の枕を並べるのも

五百生の宿縁(※ごひゃくしょうのしゅくえん

:500度生まれ変わる前から結ばれている縁※)

と申しますので、先世の契りが深いのです。

生者必滅、会者定離は浮き世の習いでございます。

 末の露(もとのしずく)のためしもあるので、

たとえ遅い早いの違いはあっても、遅れ先立つ御別れを最後までしなくて済むというようなことがございましょうか。

かの離山宮での玄宗と楊貴妃の秋の夕べの約束も、

ついには心を悲しませるきっかけとなり、

漢の武帝が甘泉殿に妻の生前の姿を描かせたというが、その恩愛の情も終わりがないということではない。

松子・梅生(※しょうし・ばいせい

:ともに漢の仙人※)にも死の悲しみはある。

等覚・十地(※とうがく・じゅうじ

:等覚は菩薩の中の最上位、

十地は等覚に次ぐ菩薩の位※)

でもやはり生死の掟には従う。

たとえ長生きの楽しみをお誇りになるとしても、

このお嘆きはお逃れになることができない。

たとえまた百年の齢をお保ちになるとも、

このお恨みはただ同じことと思われましょう。

 『第六天の魔王』という外道は、欲界の六天を我が領土とし、なかでも欲界に住んでいる衆生が生死を離れて悟りを得ようとすることを惜しみ、あるいは妻となって、

あるいは夫となって、これを妨げようとします。

 三世の諸仏は一切衆生を我が子のように思われて、

再び他の世界に戻ることのない極楽浄土に進め入れようとなさるが、妻子というものは限りもない遠い昔からずっと生死の世界に流転する絆となるがゆえに、

仏はきつく戒めになるのです。

 妻子が恋しいからといって気弱にお思いになってはなりません。

源氏の先祖の『伊予の入道』、頼義

(らいぎ、よりよし)は、

勅命によって奥州の安倍貞任(あべのさだとう)

・宗任(むねとう)を攻めようとして、

12年の間に人の首を斬ること1万6千人、山野の獣や川の魚が他の命を絶つことは幾千万か数はわからない。

そうでありながら終焉のとき、一念の菩提心を発したことによって、往生の願いを遂げたと受けたまわっています。

 なかでも出家の功徳は莫大であるので、先世の罪障はみな滅びるでしょう。

たとえ人が高さ三十三天まで届くまでの七宝の塔を建てようとも、1日の出家の功徳には及びません。

たとえまた百年千年の間、百人の『羅漢』

(※阿羅漢(あらかん)に同じ。最高位の修行者※)

を供養したとしても、その功徳は1日の出家の功徳には及ばないと説かれています。

罪の深かった頼義は心強く道を求めたので往生を遂げました。

さほどの罪業がおありでないのに、

あなたはなぜ浄土へお参りにならないのですか。

 そのうえ、当山の権現は本地阿弥陀如来でございます。

阿弥陀如来はその四十八願の第一願「無三悪趣」の願から第四十八願の「得三宝忍」の願まで、一々誓願していらっしゃるので、衆生化度の願が叶わないということはない。

なかでも第十八願では

「もし自分が仏になったときに、十方の衆生が真心をもって自分を信じ極楽に生まれようとして念仏を10遍唱えてなお極楽に生まれることができない者があれば、

自分は正しい悟りを開いたといえない」

と説かれたので、1度ないし10度の念仏で極楽往生できる望みはあります。

 ただ深く信じて、ゆめゆめお疑いにならないように。

2つ都内真心をこめて、あるいは10遍、あるいは1遍でもお唱えになるならば、

弥陀如来は六十万億那由他恒河沙の無限大に大きな体を縮めて1丈6尺のお姿で現われ、

観音勢至の2菩薩以下の無数の菩薩が百重千重に弥陀を取り巻き、音楽詠歌を奏して、ただ今極楽の東門を出て来迎しなさるので、御身は蒼海の底に沈むとお思いになるとも、紫雲の上にお上りになるのです。

 成仏得脱して悟りをお開きになれば、娑婆の故郷に立ちかえって妻子をお導きになることもできます。

少しも疑ってはなりません」

と言って、鐘を打ち鳴らして進め申し上げた。

 中将は今が極楽往生の絶好の機会だとお思いになり、たちまちに妄念をひるがえして、

声高に念仏を100遍ほど唱えつつ、

「南無」と唱える声とともに、海へお入りになった。

兵衛入道も石童丸も、

同じく御名を唱えつつ、続いて海へ入った。

与三兵衛重景(よそうひょうえしげかげ

:平維盛の乳母子)と石童丸(いしどうまる)は、

『屋島』の陣中から逃亡したときから連れていた従者。

『高野山』で維盛とともに出家しています。

 維盛は享年27。兵衛重景は享年26~27。

   石童丸は享年18。

若き命が『熊野の海』に沈みました。

 維盛が『熊野の海』に『入水』したことは都にも伝わり、親交のあった建礼門院右京大夫はその死を悼み、

歌を詠んでいます。

春の花 色によそへし 面影の

むなしき波 のしたにくちぬる

悲しくも かゝるうきめを み熊野の

浦わの波に 身を沈めける

📕 筆

那智の沖。。『山成島』

『那智』…「補陀洛山寺」の裏山には、

「維盛」と

『壇ノ浦』で安徳天皇を抱いて入水した

「平時子(二位の尼)」の

『供養塔』が建てられている。 

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