「死」とは何か?

facebook藤井 隆英さん投稿記事  【「死」とは何か?】

-デスカフェ以前、「死」についての哲学対話での言葉-

現在流行りのようになっているデスカフェ。いわゆる「死」に関する哲学対話とされているもの。私は2016年に、当時開催していた哲学対話【ことばを深め自分を知るWS】「お坊さんと トークセルフィー ~みんなで語ろう自分の言葉~」にて「死」をテーマとし参加者と対話をいたしました。

その時出てきた意見の一部を箇条紹介させていただきます。

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◯死者とは誰も見たことも感じたこともない世界。死と死者とは違う。

◯死者とは「する」ことを抜け出て「ある」ことに特化した存在。

◯死んで切り替わる。生まれ変わりの実感がない。

◯死ねないけれど常に死がそばにある。

◯死にひきつけられる。死のきわに身をよせることで生きている。

◯命のひとつの形。選択の一つ。

◯犬が亡くなったとき、死ぬまでよく生きたと感じた。

◯病気がちだったとき、死が目の前にあったが、焦って生きていた。

◯死にゆく人は意識が健全になっていくよう思える。人生の先輩とみる。

◯死がそばにあるが怖くはない。

◯死を意識していないときは生き方が乱暴だった。年をとって意識するようになり、生き方が正されてきた。

◯生と死は同じ。だったらきちんと生きたい。

◯相続とは本来財産ではなく想いの引継。

◯死とは生きているものから別の世界になるもの。

◯死に接するとわけわからない涙がでることがある。

◯急な死は怒りが起こる。死に対してオープンで話し合うのは大変有意義なこと。いろんな場でやるべき。

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-当時のまとめ文章-

この世に生きとし生けるものの死亡率は100%です。

「生きている」私たちでさえ、個々の細胞は生死を繰り返すことで、連続的に存在しているとみなされているのです。

そして人間は、死によって様々な反応を起こします。

「死」とは、人間にとって避けて通ることのできない概念であり、事実です。

今回それぞれの死に対する問い考えを共有し、そこから語り合いの反応の流れに乗っていきました。

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現在、当時と同様に開催したら、どんな意見が出るのか。きっと当時と大きく違う意見も出るかもしれませんが、時代による違いを含めて「死」と対話するということなのかもしれません。


facebook相田 公弘さん投稿記事  読むお坊さんのお話

生きる意味って何ですか  野呂 靖 龍谷大学専任講師

「生きる意味ってどこにあるんですか?」

縁あって仲間とはじめた「NPO法人京都自死・自殺相談センター」が今年(2015年)で6年目を迎えました。

6年の間にさまざまなご相談を受けましたが、私がもっとも印象に残っているのが、この言葉です。

「こんな苦しい状況で生きていて意味があるんですか?」

「私に生きる価値はあるんでしょうか?」 いままさに「死にたい」と考えておられる方からの問いかけに、私はすぐにお応(こた)えすることができませんでした。

いったい、自分の存在の意味や価値はどのようなときに感じられるのでしょうか。

3年前、こんな出来事がありました。

事務所に若い男性が相談に来られました。その日、事務所は刊行物の発送作業が重なっており、多くのボランティアでにぎわっていました。

その片隅のソファで向きあい、お話に耳を傾けます。

1年前に両親を亡くされたその方は、仕事も見つからず一人ぼっちで「生きる意味」を見いだせないこと、そしてこの面談の後に自死するつもりであることを途切れ途切れの声で話されました。

固い決意の前に、内心焦りが募ります。

その時です。切手貼(は)りをしていたボランティアの一人が、大量の封筒を前に「人手が足りないなあ」と漏(も)らしたのです。

私は「あっ」と思って、恐る恐る相談者の方に「もしよかったら一緒にお手伝いいただけませんか」と尋ねました。

すると「私でよければ」と快諾され、半日にわたり一緒に作業をしてくださいました。そして帰り際、数人のボランティアから「本当に助かったよ、ありがとう」とお礼を言われると、

「また来てもいいですか。人手がなければいつでも言ってください」と、明るい表情で帰られたのです。「自分の命のかけがえのなさ」や「大切さ」。それらは「自分自身」をどれほど見つめていってもなかなか感じられるものではありません。見つめれば見つめるほど、取るに足りない自分が露(あら)わになってくる場合もあるでしょう。

そうではなく、私たちは「誰かにとって必要とされること」「大切な存在であること」、つまり「他者」とのつながりのなかでこそ、はじめて「自分の大切さ」が実感できるのではないでしょうか。私は相談を通して、そのことにあらためて気づかされたのです。

大乗仏教の経典には、「インドラの網(あみ)」という有名な譬喩(ひゆ)が示されています。

インドラとは、仏教では帝釈天(たいしゃくてん)という名で知られている古代インドの神様です。

その宮殿の天井を飾っている網の結び目の一つひとつには宝珠(ほうしゅ)が結(ゆ)わえられており、それらがちょうど合わせ鏡のように互いに互いを映(うつ)し合い、どれか一つの宝珠をとりあげれば、そこにはその他すべての宝珠の姿が映し出されているというのです。

孤立し、ひとりぼっちで生きているかに見えるこの「私」は、実際には、さまざまな他者とわかちがたく結びつき、かかわり合いながら生きているということ――。

それこそがこの世界における真実のあり方であるというのです。

「生きる意味」を見失いかけたとき、「あなたが必要だ」「あなたはここにいていいんだ」という他者からの「よびかけ」こそが、そうした関係性を「再発見」させていくのではないでしょうか。

親鸞聖人は、阿弥陀さまのお救いについて、『浄土和讃』で次のように讃(たた)えておられます。

十方微塵世界(じっぽうみじんせかい)の 念仏の衆生(しゅじょう)をみそなはし 摂取(せっしゅ)してすてざれば 阿弥陀(あみだ)となづけたてまつる (註釈版聖典571ページ)

あらゆる世界のいのちあるものに対し、光明のなかにおさめとって捨てることがない阿弥陀さま。

その「よび声」は「南無(なむ)阿弥陀仏」のお念仏となって、今この私のもとに届けられています。さまざまな問題に悩み、孤独を抱(かか)え、ときには死をも考えるこの「私」に対し、よびかけつづけ、見守りつづけてくださっているということ。ここに、「生きる意味」を支える確かなはたらきがあると気づかされるのです。

(本願寺新報 2015年10月01日号掲載)

野呂靖

https://www.psy.ryukoku.ac.jp/teacher/noro.html

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