『るん』を読みたい
https://sengohaiku.blogspot.com/2019/04/mano-run013.html 【【麻乃第2句集『るん』を読みたい】13 『るん』句集を読んで 歌代美遥】より
句集の表紙の絵画的な秀美に感動する。
美少女からビーナスの美の化身の 女に成長した美しい肢体が、ひかり輝やく日輪を浴びて面洋的な作者自信の妖艶な姿態を「るん」という風の精に身を任せている。
造物主から放たれジオラマの外側へ楽奏の誘なわれるままに凛と立つ具象画の女性。
夕焼けを見て無く私の血が泣く
いずれ主宰としての道を実感しながら、史乃主宰から血族として本質的な俳句の可能性を受け継ぐ。心の揺らぎがあるものの、表紙絵の作者からは主宰から紡ぎ出された智の俳諧を熟成させる誇りを感じられる。
闇に寝かせた樽でふつふつと発酵を終えたワインのごとく華やかに酔わせるような魅力ががある。
花篝向かうの街で母が泣く
雛の目の片方だけが捻れゐて
『るん』の序文にある筑紫磐井氏の文章では辻村麻乃という作者が童話の中の不思議な少女の様に書かれている。不思議な町に住む異国から越境して入学してくる。日常と違う回路を持っておりノートにきれいな字を書き、どうもこころの国の言葉だけから出来ている国からきたのだろうと思う。
バタバタと死に際の蟬救へない
砂利石に骨も混じれる春麗
もし、砂利石に骨が混じっているのならば人間達はうららうららと骨を踏んでいるのだ。作者はどの場所でその景を眺めているのだろうか。詩の国から越境した作者の真実の普遍性は心の中にあり、万物の生の哀感を心奥に閉じ込め、詩境で葛藤し、それを着実に俳句の知性に表わした。
カピタンの女郎部屋にも春埃
窓毎の家族の色や月朧
囀りや脳が閉ぢたり開いたり
鞦韆をいくつ漕いだら生き返る
家ありてなほ寂しからむ春の暮
泥棒猫てふ女ぴしりと秋袷
落つるなら谷まで落ちよ冬紅葉
家族が恋しい、家という矩形が恋しい。求めても求めても空疎な思慕に落ちてゆく。
伝説にも似て鬼気に迫る。序文にある少女は、俗世で何を見たのだろうか、カピタン織の女郎の哀れで美しい姿に化身したのだろうか。
「るん」の帯文に詩人、岡田隆彦を父に、俳人、岡田史乃を母に、詩歌の世界から生まれて来た作者とあるが、親を越える苦しみは本人が一番理解しているだろう。そして誇りでもあろうと思われる。
きっぱりと名詞で留め、リズムの崩れを拒否する句の調べが心良い。
蛇苺血の濃き順に並びをり
眠るやうに交はるやうに秋の蝶
老いといふ抗へぬものとろろ汁
鰯雲何も赦されてはをらぬ
赤坂は誰の街なる野分後
限りある生命の中で悲しみは逃げ場を失った少女となる。蛇苺、蝶、とろろ汁、鰯雲とメルヘンな優しい季語が愛別離苦の覚悟を緩和してくれる。色彩の映像の効果の詳悉法が素晴らしい。
『るん』で見せる俳句は悶悶とした心を美しい季語に託し、読者を納得させるカードを切る事で鮮やかなマジシャンのごとく酔わせる。豊かな俳句の花を咲かせてくれる。
謙虚という美学は『るん』の主人公には不必要であろう。しかし作者は他人の知らない見えない所で努力をする情熱を渡らせている。そうしながら伝統的俳句を越えようと、見えないものへ視線を探り、気配を感受し、掬いとって宇宙へ心を飛ばしていく。
ご両親から受け継いだ知性を礎に自身の詩道を深化させ、詩的センスと才能と実力が
『るん』で開花した。このような感動を得られる事は読者のひとりとして嬉ばしい。
ようばけや老鶯の声跳ね返す
三峰の摂社ずらりと春の雪
髭男ざらりと話す夜長かな
肯定を会話に求めてゐは朱夏
おお麻乃といふ父探す冬の駅
句集『プールの底』で、水底から空や宇宙を眺める少女の眼は、その境にある水の表情に超えられない隔りを感じていた。しかし『るん』では成長した蝶のごとく作者の宇宙へ翔びたっている。宇宙へと連なることのできた勝者の俳句の力強さが声となり、表紙の絵にあるビーナスの姿に重なっていくのである。
例えば桜の花は今、正に今と変化しつづけ同じ形、景を等しくはしない。俳句という文芸は生命を宿したこのような美の一瞬一瞬を切り取ることで風や太陽、さらには宇宙の流れに同化していく、無限の作業である。
平等と尊敬と情愛の俳の国を誘導する先達として、これから主宰として船の舵を強靭
な力で引っ張っていかんとする覚悟を感じる。
家族皆元に戻れよ冬オリオン
木の神も野の神もゐて半夏生
https://sengohaiku.blogspot.com/2018/12/ 【【麻乃第2句集『るん』を読みたい】6 繊細と大胆の先に 杉山久子】より
電線の多きこの町蝶生まる
昨日から今日になる時髪洗ふ
蝶が生れる瞬間も髪を洗っている時間もこの世のあらゆる活動の中ではあっという間にかき消されてしまいそうなものだが、こうしてひそやかに掬い上げられて句となったものを読むと、自分もそんな時間をいとおしく思っていることに気づかされる。
出会ふ度翳を濃くする桜かな
たましひは鳩のかたちや花は葉に
繊細に詠まれているが、研ぎ澄まされてきりきりしているのとは違う、軽やかさがある。
一方こんな句も
家族とも裸族ともなり冷奴
出目金も和金も同じ人が買ふ
爽やかや腹立つ人が隣の座
一句目、家の中ではほとんど裸のような格好でうろうろしていられる関係。二句目、金魚を買う人を傍から見ていて気付いた可笑しさ。三句目、反りの合わない相手と隣席になってしまった時の残念な感じとそれを半分楽しもうとしている肯定感が絶妙。
大胆な切り取りで背景の広がるこれらの句は口誦性も高い。前面に出てこないさっぱりとしたユーモアも魅力だ。
血痕の残るホームや初電車
首塚に向き合ふデスク大西日
穏やかに見える日常の中に死の気配は確かにあるということを乾いた視線で提示されると、そこには可笑しみも漂う。
そんな視線は家族を詠むときにも表れて、
蛇苺血の濃き順に並びをり
夏シャツや背中に父の憑いてくる
「憑いてくる」が背負うさまざまな感情に、読者である私は哀しくも可笑しくて、失礼ながら「クスッ」と笑ってしまう。
家族を詠んだ句の中でもひときわ心に残る句がある。
母留守の家に麦茶を作り置く
取り立てて発見があるわけでもない、どうということもない日常の動作を詠んだ句なのだが、ここには積み重ねてきた家族の時間があり、今を家族とともに生きている生活の確かな手触りがある。
大夕焼ここは私の要らぬ場所
我々が我になる時冬花火
小春日や今がどんどん流れをり
これらの句に、自分の居場所でやるべき仕事をしつつ、更なる広やかな世界を思う人の姿を垣間見る。それは寂しさを伴いつつどこか懐かしいもののような気もするのだ。
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