「旭町の大いちょう」を見上げる
Facebook小林暁雲さん投稿記事
一句出来ました
城下町 空襲受けし 冬いちょう 暁雲
現在は城下町の姿はありません、まちなかのいちょうの大木がその説明板により約400年前にはここは宇都宮城三の丸だったんだと持参した古地図をみてタイムスリップする私がいました。そして、焼夷弾のあらしがあり、逃げ惑う市民を想像して戦争の昭和の時代を考えると、私達は平和を謳歌しているのだと・・・・・・
宇都宮市、大銀杏です。江戸時代の宇都宮城三の丸と百間堀の間に有る土塁にあります。近くに下水道の可愛いマンホールがありました、少し汚れてますが。この銀杏は、第二次大戦の空襲にあいましたが元気に生きています。当時は真っ黒になったそうです。近くには日本遺産に認定された、大谷石文化のカトリック松が峰教会があります。
https://mrs.living.jp/tochigi/event_leisure/reporter/5256529 【終戦78年。空襲に負けなかった「旭町の大いちょう」を見上げる】より
こんにちは、地域特派員の「みっちゃん」です。
今回は、宇都宮市役所の近くにある「旭町の大いちょう」を見に行きました。
場所は、宇都宮市の「いちょう通り」と「中央通り(シンボルロード)」が交差するところです。住所は宇都宮市中央一丁目9番8号。
そう、「旭町の大いちょう」と呼ばれていますが、「旭町」はこの場所の旧町名であり、現在は「中央一丁目」に町名が変更されています。
この大いちょうは、樹齢が約400年。ずっとこの場所で、この街を見守ってきました。
今から78年前の7月12日、アメリカの爆撃を受け、600人以上の尊い命が奪われた日に、この大いちょうも焼失しました。
焼け焦げて、ほとんどの枝を失った大いちょう。
人々は、この大いちょうも、そのうち、枯れて死んでしまうと考えていました。
ところが、翌年の春に残った枝から新芽を出した。
黒焦げの木から新緑が芽吹いた。
それは、空襲で傷つき、打ちのめされた人々にとって大きな希望の象徴となりました。
2023年8月15日に、日本は78回目の終戦記念日を迎えました。
今、この大いちょうを見上げて、命の美しさと尊さを感じ、78年前に無念の死を遂げた多くの犠牲者の方々を偲びたいと思います。
我々も、きっと、大いちょうに負けないくらい、たくましい底力を持っているのだと信じています。
この一年間、地域特派員の「みっちゃん」として楽しく、貴重な体験をさせていただきました。今までお読みいただき、ありがとうございました。
https://utsunomiya-8story.jp/story/story7/ 【STORY7 二度の戦災をたくましく生き抜いたまちうつのみや】より
https://www.youtube.com/watch?v=Av7p7NfIII4
宇都宮での戦い
慶応4(1868)年1月、新政府軍と旧幕府軍による戊辰戦争が勃発。江戸城の無血開城後も旧幕府方の一部が抵抗を続けます。4月19日、旧幕府軍は、宇都宮城の南東部から攻め込み、新政府側の宇都宮藩は防戦しますが、旧幕府軍に押され、二の丸館に火を放ち退城。旧幕府方の放った火と相まって、宇都宮城下のほとんどが焼失してしまいます。4日後の23日、宇都宮城を占拠した旧幕府軍は、新政府軍の総攻撃により、一斉に退却し日光に向かいました。
戊辰戦争宇都宮城攻防図
宇都宮城をめぐる攻防戦も行われ、宇都宮城は一時旧幕府軍に占拠された。この戦いで宇都宮城や二荒山神社をはじめ、城下の大半が焼失した。この図は戊辰戦争における宇都宮城をめぐる2度の戦いを描いている。(市指定・光明寺蔵)
県都宇都宮の誕生
この戦争で焼け野原となった宇都宮のまちは、その後の文明開化の波を受け近代的なまちに生まれ変わり、明治17(1884)年に栃木から宇都宮への県庁移転により、名実共に県の政治・経済の中心となります。
軍都 宇都宮
明治40(1907)年、宇都宮が陸軍第14師団の駐屯地として決定されたことにより、師団司令部等の軍関係の施設が置かれ、「軍都」として国防上重要な役割を担うまちとなりました。
宇都宮中央女子高赤レンガ倉庫 (旧第66歩兵連隊倉庫)
明治40(1907)年の宇都宮への第14師団設置に伴い、第66歩兵連隊の厨房関係施設として建設され、現在は多目的ホールとして用いられている。(国登録)
旧市街地の大半が焼け野原に
太平洋戦争が終わりに近づいた昭和20年7月12日、アメリカ軍のB-29爆撃機が宇都宮上空に襲来し、焼夷弾を投下。旧市街地の大半が焼け野原となり、多くの死傷者を出し甚大な被害をもたらしました。
宇都宮空襲により焼失した市街地(中島みどり氏撮影)
1945(昭和20)年7月12日23時19分、アメリカのB-29爆撃機による宇都宮空襲が開始。軍需工場や飛行場など特定の軍事目標ではなく、一般市民の住む市街地が狙われた。
八幡山の地下壕
第二次世界大戦末期の昭和20(1945)年、陸軍が空襲と本土決戦に備え、地下司令部として使用することを想定して建設。完成する前に終戦となり、実際には使用されなかった。(現在は公開されていません)
戦後復興のシンボル「大イチョウ」
宇都宮は戦後いち早く復興を成し遂げました。この時、空襲で焼け野原となったなか、三の丸の土塁上に立ち続けた「旭町の大イチョウ」は、終戦の翌年には新芽を芽吹かせ、市民に勇気と希望を与え心の支えとなりました。
大イチョウ
右側の写真は焼け跡に残った大イチョウ。ここから芽がでて現在の姿に。(市指定)
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