WEB現代俳句

https://gendaihaiku.gr.jp/page-16504/ 【特集「昭和百年/戦後八十年 今 現代俳句とは何か」

私と現代俳句── 多様な視点からの語りで ──】より抜粋

君の俳句は「近代俳句」

👤西池冬扇

〇「現代」に作ったから「現代俳句」、ではない

君の俳句は「近代俳句」だねと誰かに言われたら、多くの俳人はどんな反応を示すだろうか。

特集アンケートの質問項目〈現代俳句の「現代」を時期として捉えると〉は、編集部の「ぼーっと生きてんじゃないよ」というチコちゃんの声として聞こえる。

アンケートの詳細は掲載誌を読んでいただくとして、私が(予想どおり)驚いたのは結果の「多様性」である。

「俳句自由」の開かれた精神を基本理念とするならばそれで問題はないのだが…。

多様性とともに〈平成以降〉という回答が一人なのにも驚いた。

私としては、現代俳句は時間的区分より内容(時代の興趣)の問題として捉える。

もしアンケートに答えるなら、「興趣は時代の思潮に沿って生まれる」、「現代俳句の興趣は未来志向であるべき」という考えで〈平成以降〉を選ぶ。

より正確に言うと選択肢ではないが〈バブル崩壊以降〉になる。

〇時代の興趣という考え方

日本の詩歌はその文体もさることながら、詩歌の趣とする内容(私は興趣と呼んでいる)に大きな特徴がある。

時代の興趣はその時代を生きる人々の精神性や社会状況・宗教観・美意識などを反映している。

万葉時代の素朴な生命力、平安時代の雅で繊細な情趣、中世の無常観、そして江戸時代の庶民文化と洗練された美意識。

これらは次々日本人の心の生活を豊かにしつつ現代に至っている。

さて明治維新で日本は資本主義の時代に入る。思潮的には合理主義、「個人主義」の時代である。近代は資本主義の時代でもある。だが時と共に近代合理主義も陰りがさす。

新しい価値観へのパラダイム変換必要性を最も象徴的に示したのはバブル崩壊だろう。

この考えからすれば巷間「現代俳句」と呼ばれる俳句の多くは近代日本を特徴づけた興趣にもとづく「近代俳句」である。

あえて「現代俳句」と呼べるのは、現代の人間が新しく生み出したと思われる事象と興趣を対象として未来を指向している俳句としたい。

アンケートの「顰みに倣い」私の「現代俳句」五句を選んでみた。

〇現代に特徴な興趣を求めたのが「現代俳句」「現代俳句」と呼ぶべき興趣の句を例示する。

*新しい宇宙観・自然観・生命観・物質観に起因する興趣

これは極めて現代的といえる。

マクロ的ミクロ的な人間の視野の広がりは現代では我々の想像を凌駕しており、ある種の虚無感を生み出すほどである。

自然観も人間と自然を対立させた近代合理主義と明確な一線を画している。

人間の感覚を自然に同化させたいくつもの句がこの頃みられる。

じゃんけんで負けて蛍に生まれたの 池田澄子

この句は仏教的輪廻の興趣ではない。

生命が究極的には無数に存在する微塵の一つに過ぎないことを考えさせると同時に、それがじゃんけんのように確率に支配されているおののきが興趣となっている。

雪ひとひら光ったまま消える マブソン青眼

6月に句集『ドリームタイム』を作者は上梓。

モノ存在と波動性の関係を美しく捉えたまさに「量子」世界の俳句。

*時代の社会的様相に起因した興趣

彎曲し火傷し爆心地のマラソン 金子兜太

広くいえば「時事俳句」と呼ばれる俳句はこの範疇に属する。

だが時事俳句には、ややもすると醸し出す興趣が欠落するきらいがある。

核兵器は単なる兵器でなく人間の存在そのものを決定しうる死の大魔王であり、単なるモノの領域を超えたことを認識したのが現代である。

他にも「老い」はもはや興趣の領域と思わざるをえない。

*新しい虚無感に起因する興趣

でで虫が机の上でいなくなる 青山丈

丈氏の俳句は日常の暮らしで我々が気づかない不条理な空間の入り口をそっと指さしてくれる。

声高でないゆえ、安らぎの興趣と評する人も多い。

だがそれは、無意味という非情の空間である。

近未来の興趣はそのような虚無を明るい虚無と捉えよう。

*言葉に翼を与える空間を

こと俳句に関して言えば、他の詩歌のジャンルに比して、近代に次第に活力を失っていったように感じている。

坪内稔典氏は言葉が空間を生き生きと飛び回っていた力を取り戻そうとしている俳人である。

たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ 坪内稔典

作者稔典氏はしきりに「たんぽぽのぽぽ」は貞門『続山井』にある「手ずれ」た言い方だ、鼓のぽぽという音だ、といいつのる。

しかしもともと日本の短詩型は意味の多重性の世界に遊ぶはずではなかったか。

私は「むっつりなんとやら」なのであろうか、タンポポ(朱くなったぼぼ)のポポのあたりがモヨオシテ火事のようだと訴えているように思えてならない。

そういえばこの句は「手ずれ」の句でもある。


https://gendaihaiku.gr.jp/page-13400/ 【対談「虚子俳句と花鳥諷詠の前衛性」をめぐって】より

西池冬扇

対談「花鳥諷詠と前衛」―三協会統合の可能性(上)

対談「花鳥諷詠と前衛」―三協会統合の可能性(下)

○三協会統合論で「ざわざわした」こと

 『現代俳句』(2024年7月号と8月号)に掲載された星野高士氏と筑紫磐井氏の対談で星野氏は「私が現俳協に入るというだけで何かざわついている」と冒頭に述べている。 この「ざわつき」の背景には、筑紫氏の近著『戦後俳句史』で述べた三協会統合論がある。過去においても時折、統合論がうたかたのように現れては消えたという。今回も賀茂のよどみのあぶく、と思われても不思議はなかろう。しかし、今回はただのあぶくではなさそうだ。筑紫氏の著書が出版されて時を経ず「事件」が発生した。伝統俳句協会の重鎮である星野氏が現代俳句協会に加入し、しかも副会長に就任したのである。統合論の具体的な動きの現れに違いない、すわ一大事と、色めき立った人が多かったのが「ざわざわ」の正体であろう。「ざわざわ」するのは面白い。中国故事で百家争鳴という言葉がある。昔から、世の中が「ざわざわ」するのは新しい時代への変化期ということが多い。

〇三協会統合は何故必要なのか

 筑紫氏の『戦後俳句史』は400ページに近い大著である。「三協会統合論」はその大著の終章ともいうべき「おわりに」にあり、全体から言うとわずか18ページの論である。だが、この終章は筑紫氏が戦後俳句の歴史を観じたうえでの結論なのである。結論を導くにあたっての氏の論拠をまとめてみると次のようになる。

① 戦後の三協会並立にはそれぞれの歴史的必然性があった。一定程度の理念的相違を反映していた。

② 現在、俳句の価値の多様性を具現化したものとして三協会があるが最良の状態にあるとは言えない。(注:傍線筆者)

③ それの「証拠」として「俳壇無風論」と呼ぶべき現状がある。

④ 以上の結論として【現時点において(三協会が)並立していること自身に果たして意味があるのかという疑問である】と主張している。

 既存する組織に「存在意味があるのか」と批判するだけでは組織は変質も崩壊もしない。協会という体制を経営する人間にとって、協会の存在意味は今でも大きいだろうし、自己否定ということは困難である。一般的に考えれば、意味の無い組織はいずれ風化するが、それにはそれだけの時間がかかる。しかも「最良の状態にあるとはいえない」ではドライビングフォ―スを超えることはできない。この種の主張はそれに伴う現実の動き、閾値を超える駆動力(例えば誰もが分かる組織による弊害)が叫ばれるようになったとき変化が生じる。

 歴史的に観て創立時の三協会にはそれぞれの俳句の理念があり設立されたのだとしても、今ではそれが希薄化以上に無意味になっているのは事実である。もし、俳句の理念で存在を意義付ける組織が必要なら、それは本来同志的結合を柱とする結社の役割である。協会は本来俳句芸術全体の振興のために設立されるべきものであり、その原点(つまり一つの党派的俳句理念ではなく俳句という詩歌全体のためという立場)を動かしたことが、そもそもの誤りである。もし三協会を統合するなら、何にも増して、その原点を確認しなければならないだろう。

 近代と未来の端境期である現在は価値の多様化の時代である。仮に協会を俳句の理念を基にして、再編するのだとしても、当然現在の価値の多様化を反映しなければいけない。その意味では今回の「ざわざわ」によって現在の理念的問題の再整理の機会がおとずれたというべきであろう。

 個人的には公益法人的協会であるならば、俳句の「理念」をかかげるべきではないと考えている。理念を前面にかかげるということは、筑紫氏のいうように禁止規定で俳句を縛ることになりうる。それでは再編はあり得ても一協会への統合の実現はまたもや奇怪な混合体制を生み出すだけである。統合するなら、俳句の「理念」前面にかかげるべきではない。語弊を恐れながらもあえていえば、ここでいう「理念」は「俳句の作りよう」のルールのことである。

〇さしあたっては「ざわざわ」を声に

 対談のタイトルは「花鳥諷詠と前衛」である。筑紫氏の統合論という議論の座標軸を意識しながらも、この対談は実は俳句という表現様式が現代まで宿題に残してきた課題を議論の土俵に押し上げる目論見になっており、そこを評価すべきだ。そして原時点は組織論を云々するより、まずは俳句の「理念」をおおいに討議することで多様化している実態をくっきりと表わしてみせるべき時であろう。あるいはその理念を討議するための、場の設定を皆で考えるべきときであろう。私はそのための「アゴラ」の設置をWEP俳句通信vol140号で呼びかけたことがあるが、参照していただきたい。今回の両氏の座談会の中で吟行の話が大きな話題になっていたが、題詠と吟行を対比させた理念の問題もさることながら、(座談会後の討論に参加した柳生氏も述べているが)、領域を超えた考えの人々が同じ自然に向かい合い、同じ句座を共有することは、素晴らしい提案である。その空間では現在の協会の存在の無意味さだけでなく、弊害も肌で感じるに相違ない。

 一方、迅速に事を運び枠組みを変化させ、それで俳句の中身自体を変化させていこうとする考えは、ありうる。だが文化的な思潮に関した事を進行させるのには賢明とは思えない。斜陽産業は企業の統廃合によっては産業自体の未来を切り開くことはできないのと同じことである。産業の内質を高めるためにはイノベーションが必要であるのと同じことである。まずは「ざわざわ」を声として百家が声をあげるべき時である。

〇この対談で扱われた俳句理念的課題を案じる。

 今回土俵に上がった課題は二つあった。一つは「前衛」の意味を問うことであり、いま一つは「花鳥諷詠」という理念である。筑紫氏は戦後俳句の全体を(保守VS前衛)という図式で捉えたかったのだが、どうも時代を経たら(花鳥諷詠と前衛)になったという。この二つの課題が同じ土俵で論じられること自体奇異とも受け止められるが、筑紫氏の戦後俳句史観からくる必然ということであろう。最も大きな疑問は「現代俳句協会の俳句理念」と「俳人協会の俳句理念」を主要な理念問題として捉えずに、「伝統俳句協会の俳句理念」とのそれを最重要課題としていることである。【統合論を考えた時、もっとも難しいのは元々一体(創設時の現代俳句協会)をなしていた有季派と無季派の調停ではなく、花鳥諷詠派の扱いだ。】と前述『戦後俳句史』で述べている。確かに花鳥諷詠派との「調停」は困難ではあろうが、現実的には、俳人協会との「調停」もその「俳句理念」が特に定款に詠われているわけでないのでかえって混沌とする可能性が強い。筑紫氏のいうほど容易とは思えない。ただし現代俳句協会の理念と俳人協会の理念とでは摩擦部分が多いということではなく、【前衛だけがいるわけじゃなくて、極右と極左がいるのが現代俳句協会】(質疑応答時の後藤氏の発言)に対して、俳人協会には組織としての理念が希薄といわざるをえないからである。むしろ加入各結社によっては理念(多くは信条という言葉であらわされるが)自体が希薄化している現状がある。それゆえに理念問題に関し俳人協会は問題視しなくても大丈夫という考え方があるなら私はそう思わない。今理念に関して討論を巻き起こすのは、統合というテーマを契機に多くの俳人に俳句のありようをドラスティックに問いかけたいからである。

 理念問題にもどる。

 花鳥諷詠は伝統俳句協会俳句の理念である。もう一つ重要なキーワードがあり「客観写生」である。理念問題で「花鳥諷詠」を前衛的理念として位置づけたい筑紫氏にとっては、両者の関係を理念的にすっきりさせたいのであろう。「花鳥諷詠」と客観写生との関係を星野氏に問う。しかし星野氏は「それは謎」とし、筑紫氏は政治的問題だという。そのうえに星野氏は花鳥諷詠に加えて極楽の文学という主虚子の主張を持ち出している。全然議論は嚙み合ってこない。それもそのはずである。花鳥諷詠という「理念」は高浜虚子の「俳句の考え方のパッケージ」に対して貼り付けられたレッテルで、中身は多様であるので対立する概念として論じるにはもともとスキームの立て方としておやと思わせる。とはいうモノの、花鳥諷詠と前衛という二題話は、戦術的には驚嘆せざるを得ない。奇妙であるとともに今回の土俵上での最も魅惑的取り組みである。

〇客観写生と花鳥諷詠はマヌーバーか

 その後の質疑応答を含めた対談での話題はいくつかにまとめられる。ひとつは虚子の主導した理念である客観写生と昭和3年に突然言い出した花鳥諷詠との関係がいまだに明確になって(して)いないことが指摘される。星野氏がそう述べているのでこの状況の認識は重みがある。筑紫氏は虚子が「客観写生」からキャッチフレーズを「花鳥諷詠」に切り替えたのは虚子の親心と捉えたことはある程度以上に納得感がある。虚子の理念的問題に対する姿勢はまさにマヌーバー的であり、ある意味では驚嘆する。理念問題だけでなく文学運動における「不寛容派」と「寛容派」への変移を筑紫氏は指摘しているが、面白い。

〇内なる前衛性から花鳥諷詠は前衛である、への「進化」

 もう一点注目すべきことは虚子の中には鬱勃とした前衛精神が存在しているという筑紫氏の指摘である。虚子の俳句にひそむ未来性に対する指摘は今までもみられることであるが、この対談では、虚子の「内なる前衛性」から対談が進むにつれ、【「花鳥諷詠」は予測のつかない詠み方で、必ずしも古来の伝統的な詠法ではない。「前衛俳句」の一つの分野、手法といってもいい。】と意見を先鋭化して見せる。さらにその意見は、花鳥諷詠は「未来派」「ダダイズム」「シュルレアリスム」に続く四番目の「アヴァンギャルド」だと主張する。奇説ということではないが、一瞬戸惑う人も多かろう。しかしその意味でも「花鳥諷詠」はあながち無視すべきではない内容を有している、現代的にブラッシュアップしていけば、世界的な文学運動に発展するキーワードになりうる。なぜなら今人類が求めている自然と同化する思想を内包しているキーワードだから。それゆえにも花鳥諷詠は真の前衛性を獲得する必要がある。

〇前衛という改革者

 対談中で筑紫氏は前衛という言葉をしばしば用いている。私の世代では前衛というのは、種々の意味で魅惑的な言葉であった。だが現在ではどうなのだろうか、もしかしたら若い人には色褪せた言葉というより、別世界の言葉と思っているかもしれない。杞憂かもしれぬが、少し私の理解している前衛について述べておくのも必要かもしれない。

 前衛(アヴァンギャルド)とは、主に芸術、文化、政治の分野で、実験的で革新的な作品や人々を指す言葉である。芸術や文化における前衛表現は、現在の規範や常識とされるものの限界や境界を押し広げたり、越えたりする。

もともと前衛は軍事用語で、12世紀には本隊に先駆けて敵と対峙する部隊を指していた。この言葉は、19世紀には政治の分野で、20世紀初頭には文化や芸術の分野で使われるようになり、「大胆不敵さで先駆者の役割を果たす(と自負する)運動や集団」という意味を持つようになる。

 前衛運動は、しばしば社会や政治の変革とも結びついている。前衛芸術家たちは、自らの作品を通じて社会の問題提起や変革を試みることが多く、既存の権威や制度に対する批判や挑戦を行い、新しい社会のあり方を模索した。

 前衛の概念は、時代や場所によって異なる形で現れるが、その本質は常に「新しいものを創造し、既存の枠組みを超える」という点にある。時に理解されにくい表現様式をとることがあるが、その根源は世界の実態に迫ろうというリアリズムであり、その挑戦的な姿勢や革新性は、多くの人々に刺激を与え続けている。その意味では「花鳥諷詠」も前衛性を種芽として内包しているともいえる

 美術で言えば、1870年代の印象派から始まる。ギュスターヴ・クールベが美術的な意味で前衛を使ったのが前衛美術の起源とされる。彼は、まずテーマにおいてそれまで描かれることのなかったリアルな貧民、労働者や理想化されていない普通のヌードを描いた。第二次大戦中の爆撃で焼失した『石割り人夫』や女性の性器と下腹部をクローズアップした絵画「世界の起源」は有名である。

 1855年に画家が自分の作品だけを並べたクールベの作品展は、世界初の「個展」だと言われている。この個展の目録に記されたクールベの文章は、後に「レアリスム宣言」と呼ばれることになる。クールベの言語使用から考えても、「前衛」は、「意味がわからない」や「シュール」といった意味ではなく、その時代の常識を逸脱した先駆的な行為のことを指すのであり、リアリズムが「先駆性」が前衛にとって重要であったわけである。

〇当面の土俵は虚子の評価をどうするか、だがその先を

 議論に加わった柳生氏が虚子評価に関して述べている。【虚子が自分のなかでぎりぎりまで追求していくなかで、前衛を自負している人たちがやろうとしているのと近い地点まで行く感じはありますね。】、【虚子は限定的なものしか俳句として認めていなかったという固定観念がありますが、実は多様性を見ていた人という気もしてきます】。筆者も同感で俳句の理念は現在虚子の評価をめぐって前衛性が問われるべきである。つまりタイトル(花鳥諷詠と前衛)のごとく二つの概念を対立的に併存させただけであれば、前衛性を問題としたことにはならない。むしろ今後前衛とはどうあるべきか、花鳥諷詠が内蔵している思想を前衛的思想として如何にブラッシュアップすべきか、さらに前衛性を表出するために如何にすべきか等のさらなる議論を続ける必要がある。またもっと重要なことであるが、作品群として実現していくことがいかなる芸術的潮流に対しても必要である。 

https://gendaihaiku.gr.jp/page-14730/ 【「花鳥諷詠」に先進性はあるか】より

西池冬扇

§1 はじめに

 今俳句三協会統合の議論が話題になりつつある。統合を実現させるには、俳句理念の問題をなおざりにできない。むしろ理念問題を議論している中で、統合の必然性が浮かび上がってくるのが望ましいと思う。

 現代俳句協会の機関誌『現代俳句』2024年7・8月号の対談「花鳥諷詠と前衛」(*1)はその意味では大変刺激的である。

 現在必要なのは多くの人々が集まって議論を展開することだと思うが、俳句の理念として「花鳥諷詠」(高浜虚子が理念としていた)をたたき台とするのが現実的に最も実りある議論がなされるのではないかと思う。

 私は昨今の議論の流れを鑑みるとそれおたたき台として考えたばあいの喫緊の課題を次のように考えている。

 ① 「花鳥諷詠」と「写生」の論理的整合性の議論

 ② 「花鳥諷詠」という「理念」の未来志向性の議論

 ③ 俳句における前衛とは、何かという議論

 ここで①と③は現代俳句協会での筑紫磐井と星野高志の両氏の対談で話題に上がっている。特に磐井氏は「花鳥諷詠」が前衛思想である、という考えを主張しており俳句の未来志向性を含め一般的な議論たりうる。②に関しては日本伝統俳句協会の会長岩岡中正氏が「虚子への回帰」として常に主張している課題である。

§2 花鳥諷詠論の喫緊三課題の簡単な説明

 上記①の課題は、実は花鳥諷詠という「理念」の輪郭を定式化しようという試みでもある。「対談」の中で、星野高士氏は述懐していたが、虚子の「花鳥諷詠」理念は輪郭が分かりにくい。特に「花鳥諷詠」理念と「写生」の関係が分かりにくいという。そのあたりのことをすっきりさせる必要があろう。いわば過去の理念とされている考えを整理しなおすことになろう。

 上記②の課題は、「花鳥諷詠」理念の未来性を検証し、理念の内外から未来へ通じる要素を明確にしていこうとする課題である。この課題は常々日本伝統俳句協会会長の岩岡中正氏が機会あるごとに主張していることである。ただ、岩岡氏はこれを「花鳥諷詠」への回帰と位置付けているようだ。言葉だけの問題かもしれないが、私は回帰とするならば、それは新たな時代からの影響を受けた「回帰」であり、未来を指向する要素を抽出すべき、螺旋的回帰とでも呼ぶべきものと考える。またそのようなリニューアルが必要である。

 上記③の課題は「花鳥諷詠」理念の未来性はその前衛性にあるとする考えで、筑紫磐井氏が上述の対談で主張している。「花鳥諷詠」理念の前衛性を云々するというのは、とりもなおさず「花鳥諷詠」理念の中の未来志向の要素を抽出することである。ただその前に俳句における前衛性とは何かを考えておくことが必要である。それは、議論が思想の内容の吟味に至る以前に拒絶反応を起こしたり、論者の我田引水的になることを防ぎ、かつ新たな俳句理念の創出につながるものと考えるゆえである。

§3 前衛とは何か

 課題①と②に関して筆者はその骨組みをノート風にすでに他の論考で述べている(*2)のでここでは俳句の前衛性をノートとして述べる。今後起こるべき議論の参考になればと思う。特に「前衛性」という言葉が醸すニュアンスは「現代俳句」読者諸賢が感応しやすいと思い、本誌のアゴラに載せていただくことにした。

〇芸術における前衛とは何か。また文学における前衛とは何か。

 いわずもがなであるが、前衛(アヴァンギャルド)とは、フランス語で「先駆け」や「前線」を意味し、通常の慣習や伝統から逸脱し、新たな方法やスタイルを模索する芸術や文学の動きを指す。もともとは軍事用語である。

 芸術における前衛は、そのために斬新で挑発的な手法を採用するというイメージがある。例えば、20世紀初頭のダダイズムやシュルレアリスムなどの運動は、従来の芸術観を大きく覆し、偶然性や無意識を重視し、かつ日常の物体や非伝統的な素材を使って新しい形式の芸術を生み出した。現代のインスタレーションアートやパフォーマンスアートも前衛芸術の一部と考えられ、観客の積極的な関与や反応を促し、芸術の枠を広げるものである。

 前衛芸術はまた、社会的・政治的なメッセージを含むことが多く、既存の権力構造や文化的価値観を問い直す役割を果たす。例えば、フェミニストアートやエコアートなどは、特定の社会問題に焦点を当て、それを通じて変革を促すことを目指す。

〇文学・詩における前衛とは

 伝統的な物語の構造や言語表現を越え、新たな方法で読者に挑戦する作品群を指し、物語の時間軸を崩したり、視点を変えたりすることで、読者に新しい視座や解釈を提供する。20世紀の作品で有名なのはジェームズ・ジョイスの 『ユリシーズ』やサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』などが相当する。

 また、詩の領域では、言葉だけでなくその配置や形状を通じて意味を伝えようとする具体詩や視覚詩をイメージする。いずれも読者に新たな読み方や解釈の可能性を提供し、文学の枠を広げる目的である。

 さらに、現代の前衛文学は、デジタル技術の発展を適用した新形態を採用する。インタラクティブな物語やマルチメディア作品は、読者が物語に積極的に関与することを可能にし、文学の概念を再定義していると考えられる。

 要するに、芸術と文学における前衛は、常に革新と挑戦を求め、既存の枠組みを超えようとする運動としか定義しようがないようである。

〇要するに詩歌における前衛とは、とは

 20世紀初頭のモダニズム運動は、前衛詩の発展に大きな影響を与えた。エズラ・パウンドやT.S.エリオットなどの詩人は、伝統的な詩形式を打破し、新しい詩のあり方を模索した。また、現在では「具体詩」や「視覚詩」の分野等があり、前衛詩の範囲は広い。

(注:60年代に流行した具体詩では言語は造形素材としての単語に還元される。歴史的、社会的に既成の統辞法、文法、意味論から遊離した単語を視覚的に配列したりする。また語の音声的連鎖、聴覚的連合を追究する。視覚詩は従来の文字組みでは得られない文字の繋がりを探求)。

 現代の前衛詩もデジタル技術の発展とともに進化している。インタラクティブな詩やマルチメディア作品は、読者との新たな関係を構築し、詩の概念を再定義せざるをえなくしている。

 要するに、詩歌における前衛とは、常に革新と挑戦を求め、既存の枠組みを超えようとする詩の分野で、新しい視点や表現方法を探求し、詩の可能性を広げ続けている。俳句も詩歌であれば俳句の前衛性とはこんなものであろうか。

〇想像するに前衛俳句とはどんな俳句だろうか。

 今までの多ジャンルの場合を考慮して一般論で言おう。俳句における前衛性とは、伝統的な俳句の形式やテーマを超え、新たな表現方法や視点を探求することである。①形式の自由化:前衛俳句は、俳句の基本的な構造である5-7-5の音節パターンの使用に囚われず、自由な形式と内容を採用する。俳句の可能性を広げ、現代的な感覚や問題意識を反映させるためである。②新しいテーマと視点:従来の自然や季節をテーマにするだけでなく、現代社会の問題や個人的な経験もテーマとして増大する。③言語の実験: 言葉の音や意味の多層性を探求して、読者に新たな視点や感覚を提供するというものであろう。

 しかしこれらははたして俳句という短詩型に適応する、あるいは適用するべき性格の方向性なのだろうか。

〇俳句の自然観は元来前衛的である

 私はポスト近代の前衛的な俳句というのは形式や言語の意味の破壊にその役割があるとはしない。その主な課題は表現形式ではなく、そこに詠いこむ興趣が前衛的であるべきだと考えている。

 それには前衛的という語句に新しい命を吹き込まねばならない。端的に主張すればもともと自然と人間を同化させた自然観を日本人の文化は持っている。その背景にある自然と人間を同化させる思想、これが伝統的な興趣を形成してきたが、人類社会が近代合理主義を主要な哲学としてきた現在では、むしろ前衛的な色彩を帯びてきているということである。このことは伝統主義からの反近代主義を主張しているのではない。それとは一線を画することになる。 現代科学の発展は、自然と人間が物質的にも同化した存在だということを知識として与えたし、自然と人間を対置していく地球システム観から共生さらに同化の思想にもとづくシステム観にしなければいけないことを今や認識している。そういう観点にたった、自然観こそ真に前衛的なのである。理念的に「花鳥諷詠」は自然との同化という新しい智慧をえて単なる回帰ではなく、前衛たりうるのである。このことはまだテーゼとしては未熟と思うので諸賢の検討を乞いたい。

 補足的にのべれば、従来の前衛俳句の運動は、20世紀半ばから特に顕著になった。具体的な例としては、金子兜太などの俳人が挙げられる。彼らは、戦後の日本社会や個人的な体験を題材にした革新的な俳句を創作した。戦争の悲惨さや社会の変革をテーマにしたものが多く見られる。社会性俳句と呼ばれるもののテーマも従来の「花鳥諷詠」的理念からはでてこない興趣が存在している、私はこれを含めた俳句の理念が誕生すべきだと思う。

 さらに現代の前衛俳句は、デジタル技術の発展とともに新しい形態を模索している。インターネットを利用した俳句の発表や、視覚芸術と融合した作品などがその一例だ。これにより、俳句が持つ表現の可能性はさらに広がる。このおとも議論の課題として入れていかねばならないだろう。

 要するに、俳句における前衛性とは、伝統を尊重しつつも、新たな表現方法やテーマを探求することであり、俳句の可能性を広げ続ける重要な動きである。百家争鳴を期待する。  

☆主な参考文献

*1 対談「花鳥諷詠と前衛(上下)」『現代俳句』2024年7月号8月号

*2 西池冬扇「俳句の魔物再び」,『ウエップ俳句通信』2025年144号

(了)               

      

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