【竹有上下節】

https://www.foresight.ext.hitachi.co.jp/_ct/17379849 【竹有上下節~しなやかな強さをもつ竹にまつわる禅語~】より

秋の季語に「竹の春」という言葉があるそうです。

おのが葉に 月おぼろなり 竹の春  蕪村

竹は秋にもっとも翠々(みどりみどり)として勢いを増し、自らの葉で月の姿がおぼろげにしか見えなくなっている情景を詠んだ与謝蕪村の句です。

禅宗では、竹は松や梅とともに「歳寒の三友」といわれ、いわゆる寒さに耐えるというところから喜ばれる樹木です。竹と松は常緑樹で寒い中でも翠を失わず、梅は寒さの中で百花に先んじて花を咲かせていち早く春を告げます。なかでも竹は、禅宗の宗祖達磨大師がインドから中国に渡り、禅を普及させた江南(※1)の地が竹の名産ということもあってか、竹にまつわる禅語はいくつもあります。美しく涼やかな竹林はかつて清談の場であり、「清風動脩竹」(せいふうしゅうちくをうごかす)(※2)とか、「竹葉葉起清風」(たけようようせいふうをおこす)(※3)といった禅のこころを表現した言葉も多く残されています。いまでも禅寺に行けばどこかに竹が植わっています。私が修行した静岡県三島にある龍澤寺にも広大な竹林があって、春には修行の一つとしてひたすらタケノコ掘りをしたのを懐かしく思い出します。

竹にまつわる禅語として恐らくもっとも知られているのは、「竹有上下節」(竹に上下の節あり)ではないでしょうか。そしてこの禅語にはいろいろな意味・解釈が加えられています。文字どおり、竹に上下の節があるように、人間にも区別があって、どんなに仲が良くてもそれぞれの立場や考え方があり、礼儀や節度を守らなければ社会の調和は保たれないということです。また、上下に節があるのは竹の根本・基本のかたちであり、これをおざなりにしてはならないという教えです。たとえば、歌舞伎の世界でいう「形無し」と「型破り」の違いと同じで、基本のかたちを身につけていなければ、型破りな演技として評価されることはなく、単に形無し(台無し)になってしまいます。

画像: 「辛巳初冬日書於全生庵鐵舟居士」(辛巳(かのとのみ、明治14年)の初冬の日に全生庵に於いて書す 鐵舟居士)

「辛巳初冬日書於全生庵鐵舟居士」(辛巳(かのとのみ、明治14年)の初冬の日に全生庵に於いて書す 鐵舟居士)

また竹は、上下の節と節の間が中空で、それが連なったおもしろい構造になっています。全部が節だと曲がらないし、全部が中空だとすぐに折れてしまいます。節のもつ堅さと中空のもつしなやかさのバランスがとれていることで、竹はそのしなやかな強さを保っているわけです。私たちの普段の生活は竹でいえば中空の部分です。これに対して創業何周年とか、結婚記念日とか、お正月といったさまざまなイベントが節の部分です。普段の生活に流されるばかりだけでは、いつかこころも身体も折れてしまいます。そこで竹と同じように、組織としても個人としても節目のもつ役割が大切になります。それぞれが節目を作ることで、過去をしっかりと認識し、未来を展望するとともに、現在を見つめ直す機会となります。過去・現在・未来を俯瞰し、自分自身の今を見つめ直して行動を起こす節目をもつことで、組織や個人が生きていくなかで何かが生じた時、強い風が吹いて嵐になった時に、その対応力に差が現れると思います。ますます内憂外患の難しい時代と簡単には片づけられませんが、硬軟両面をあわせもつ竹のように、力強いしなやかさを身につけたいものです。

※1 江南:現在の河南省。その鄭州市登封に達磨大師が修行した嵩山少林寺がある。

※2 清風動脩竹:ありのままの現象も大事だが、それに執着してはいけないといった意。

※3 竹葉葉起清風:竹の葉が清風を送っているさま。竹林の美しさを表現した語。


https://ameblo.jp/ainohito-keitennaijin/entry-12836758507.html 【【竹有上下節】〜竹も人も節の数だけ成長する〜】より

おはようございます❄🥶。今シーズン初の積雪⛄の仙台です…🎵我が家の前は10センチほど積もりました。山形生まれ、山形育ちの私は、雪⛄が積もるとワクワクしてしまいます🤣

雪⛄が積もると、寒さが和らぎますからね…🤗雪⛄を見ていたら、ある禅語が頭に浮かびましたのでそちらをシェアをさせていただきたいと思います。

【竹有上下節】

禅語に竹有上下節(たけにじょうげのふしあり)という句があります。

これは対句になっていて、「松無古今色(松に古今の色なし)竹有上下節」(竹に上下の節あり)」となります。

直訳では、

「松は季節によって色(緑)を変えたりせず、いつも同じである。竹には、上下の節がはっきり存在し、上下の区別がある」という、何気ない自然の状態について、松と竹を対比して詠んでいます。この一連の句で意とするところは、『世の中の物事は同じでもあり、異なってもいます。これをありのままに受け入れられれば世の中は平和です。

そこには好きや嫌いといった感情や、悩むこと苦しむことなどといった要素はありません。

しかし世の中には、分けて考えたり、けじめを付けて考える必要のある物事があります』

と、いう教えの禅語です。一見、弱々しく見える竹ですが柔軟で節が硬いですよね。

また、松と竹についてはこんな形容があります。

「冬の雪の日、力強く雄大な庭の松は、枝に雪が積もっても平然と構えていたが、朝起きたら雪の重みで枝が折れていた。しかも枝振りの良い先端が」。

一方で竹は、「雪の重みで垂れ下がっていて弱々しく見えたが、しなっているおかげで雪が滑り落ちて、朝には元気に元に戻っていた」と、言うものです。

一見、弱々しく見える竹ですが、これは<軟弱なのでなく柔軟>だったと言うことです。

災難が過ぎ去るまで頭をたれていたのです。折れそうで折れないのは【節】があるからで、【節】は硬く、節目ごとにある空間を支えています。

地下の茎が伸び自分の支配する領域を伸ばす 人生においても【節目】は大切な事ですよね。

入学や就職、結婚など、人との出逢い、人生を変える事になった出来事、転職、流れを変えた事柄など、数多くの経験や体験が財産や力になります。

それらを単なる通過点とは捉えず、大切な【節目】と捉え、自身の活力にすることが大切かと思います。竹の<ありよう>は参考になりますよね(竹にもあり方があったのです)。

本当に身近で意外なところに眼を向けさせるのも禅の教えです🤗。

次は、竹から学ぶ、「人の成長について」となります。

竹は地下茎(地中にある茎)が横に伸びてゆき、伸びた地下茎から顔を出します。

私達が見る竹は地下茎から伸びたものです。地上に顔を出した初期のものがタケノコ(筍)です。母方の実家の裏山が竹林だったので竹に関してはウンチクあります🤗  

実は、竹の【節】は成長して増えるのではなく、タケノコの時から既に約60の節を持っています。  

つまり、竹の【節】は、タケノコの時の節の数と成長完了時の節の数は同じです(ねっ初めて知ったでしょ!)。

通常、植物の成長点は幹や枝の先端部分にありますが、竹は【節毎】に成長点を持っていて、この成長点が伸び、節と節の間隔が広がり背が高くなります👀👀👀。

竹の成長が早いのはこのためです。

竹は地下茎が伸び自分の支配する領域(土地)を拡大させていきます。

既に生えていた植物から光を奪うためには、ものすごく速いスピードで成長し、そこにあった草や木よりも高く伸びなくてはなりません。

それを、可能にするのが節の存在です。人にとって成長は大切ですよね。

しかし、成長過程に山あり谷ありは付きものです。苦境に直面する事も多々あると思います。

私たちは、すでに【節】は持っているのです。

しかも、人それぞれの【節】を持ち合わせているのです。

私も含めた、多くの皆さんが成長過程ですから、例えたら<タケノコ>みたいなものですよね。

でも、人生が終わるころには大きく成長した竹となっていることでしょう。

生まれながらにして持っている【節】が何なのかを理解し、それぞれの【節】に見合った努力と成長が必要なのでんですよね…🤗

なぜなら、【節】は新たに増やすことは出来ないのですから・・・。

今、与えられている【節】を成長させることしか出来ないからね・・・。

<節の数だけ成長する>

と考えれば、その節をしっかりと鍛えると同時に、節と節の間の空間を等間隔で成長させる人生の舵取りも大切かもしれませんね。

禅語はなかなか難しいですが、頑張って「ひらがな」で説明したつもりです。

今日も素敵な1日にしてまいりましょう🤗🎵

今日もイイ日だ!今日もイイことがありそうだ!以上。

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