寓話
https://note.com/arkios/n/naff3be5917a2 【『君たちはどう生きるか』の「水仙の芽」について】より
楓の枝は、硬い肌のいたるところから、真っ赤な芽を吹き出して居ます。八つ手の頂きにも、厚い外套をスッポリとかぶった新芽が、竹の子のような頭を突き出していますし、ドウダンの細かな枝の先は、みんな小さな玉をつけています。庭のどこを見ても、柔かな土をもちあげたり、堅い梢をふくまらせたり、数しれない新しい芽が、みんな、もう外をのぞきたがって居ました。そして、他のものよりも先に地上に顔を出した草の葉は、僕を見てくれというように、いきいきとした顔をあげて、一生懸命伸びあがっています。
9章:水仙の芽とガンダーラの仏像 岩波文庫p275
コペル君の黄水仙のエピソードで現れる、美しい表現です。
みなさんはこのエピソード、美しく感動的な話だと感じますか?
僕はこの話を醜くておぞましい話だと思います。
「庭のどこを見ても、柔かな土をもちあげたり、堅い梢をふくまらせたり、数しれない新しい芽が、みんな、もう外をのぞきたがって居ました。」
と、書かれているのですから、コペル君が黄水仙を移し替えた先にも、なにかしら「延びてこずにはいられないもの」が芽吹いていたはずなのです。直接の描写はないものの、コペル君はそこに元々生えてきていたものを、引き抜いて殺してしまっているはずなのです。
さらには、なにやら意味もなく感動的な描写に仕立て上げていますが、
コペル君が「よくやった、よくやった」と褒めている水仙は、
既に十分その場所に根を張っているわけですから、放っておけばその場所で立派に育ってゆくはずです。
にもかかわらず、コペル君は勝手な思い込みで、そうした苗まで移し替えてしまうのです。
「よくやった」黄水仙の根が深く張っていることを考えると、もしかしたらその場所の日当たりが良くないのは、コペルくんがそれを見た朝の時間のいっときだけで、日中を通してみたら、日当たりの良い場所なのかもしれないですよね。
吉野源三郎がここで読者に気がついて欲しいと願ったものは、道理を見失い暴君として振る舞うコペル君の傲慢な姿です。この話の背後には、当時の時代背景があります。
当時おこなわれた移民政策です。
「君たち」巻末の「作品について」では、その出版の年の様子が次のように書かれています。
1935年といえば、1931年のいわゆる満州事変で日本の軍部がいよいよアジア大陸に進出を開始してから4年、国内では軍国主義が日ごとにその勢力を強めていた時期です。
9章の冒頭の「汝自身を知れ」という言葉の真意ももはや明白なはず。
この言葉は、コペル君に向けての言葉であると同時に、読者へ向けて語りかけてもいるわけです。この章をわけもわからないまま「感動物語なんだろうな」と受け取るのは「汝自身を知らない」読者ってことです。
この物語では、人の儚く無常なさまを「水」で表現して来ました。
潤一、水谷、浦川、黒川らは、皆、なまえに水の意味が含まれます。
水仙とはすなわち人間を模した表現なのであり、それが黄色なのは、私たち日本人が黄色人種であるからです。
https://ameblo.jp/wasansensei/entry-12817867131.html 【「君たちはどう生きるか(九 水仙の芽とガンダーラの仏像・十 春の朝)」読了。】より
(九 水仙の芽とガンダーラの仏像)読了。
コペル君は庭の水仙を日の当たる場所に植え替えてやった。離れた撮っころにある少し芽が出たばかりの水仙も植え替えてやるために土をシャベルで掘り出した。ところがなかなか球根が姿を表さない。30センチほど掘って、ようやく球根が出た。球根から伸びた地面の中の茎は白く、ちょっと見るとネギのようだった。コペル君は、地面に顔を出した芽が「伸びてこずにはいられなかった」ことに思いを馳せた。
仏像といえば日本や中国などの東洋のものだとばかり思っていたコペル君は、おじさんと話すうちに、仏像はインド北西部のガンダーに定住したギリシア人とインド人の、東洋と西洋が混じったものだったことを知る。
ものごとの期限など、先入観を持たずに深く調べて考える大切さを知ったコペル君だった。
(十 春の朝)読了。
コペル君は、おじさんが書き残してくれたノートを何度も繰り返して読んだ。そして今度はコペル君がノートに書いたものをおじさんに読んでもらうことにし、さっそく一文を書いた。そこには心身ともに成長したコペル君がいた。
コペル君のノートは、若い少年のさわやかな思いに満ちていた。
吉野源三郎は、次のように締めくくって、この物語を閉じた。
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そこで、最後に、みなさんにおたずねしたいと思います。ーーーー
君たちはどう生きるか。
https://qna4i74bwyy0.blog.fc2.com/blog-entry-42.html 【水仙の芽:「君たち」と吉野⑬】より
「君たちはどう生きるか 九、水仙の芽とガンダーラ」より
コペル君は庭におりて、日を浴びながら歩きまわりました。
楓の枝は、硬い肌のいたるところから、真っ赤な芽を吹き出しています。八つ手の頂きにも、厚い外套をスッポリかぶった新芽が、竹の子のように頭を出していますし、どうだんの細かな枝の先は、みんな小さな玉をつけています。庭のどこをみても、柔らかな土をもちあげたり、堅い梢をふくらませたり、数知れない新しい芽が、みんな、もう外を覗きたがっていました。
そして、ほかのものより先に地上に顔を出した草の葉は、僕を見てくれといように、いきいきとした顔をあげて、一生懸命のびあがっています。
それから、コペル君は、縁側の下から小さなシャベルを持ち出してきて、日陰に芽を出している草花を、日当たりのよいところに移してやりました。同じ黄水仙でも、日当たりのよいところにいるものは、もう花をつけているのに、日当たりの悪いところにいるものは、まだ蕾もつけていません。
だがー
だが、目をあげてみると、その延びてゆかずにはいられないものは、楓の中にも、八つ手の中にも、どうだんの中にも、ーーーいや、あらゆる草木の中に、いまやいっせいに動き出しているのでした。
現実の場面のことでしたら、コペル君の行いはなんら問題ではないわけですが、吉野はここに含みをもたせて描写しています。ですからコペル君の行いは自分勝手で傲慢なもので、すでにそこに生えていたであろう草や芽を除草した上で黄水仙の植え替えを行うという、無慈悲な暴君です。それは何か不穏なイメージを孕むものです。
というのも、移し替えのときにうっかり根を「プチン」としてしまえば「根切り」ですし、そうやって根が絶えてしまえば「根絶」です。
吉野源三郎としては、ここに王道楽土の建設と満州国、満蒙開拓移民のことが頭にあるのではないでしょうか。「延びてゆかずにはいられないものは、コペル君のからだの中にも動いているのでした。」とあるように、皆平等にもっているものを、コペル君は一方的に蹂躙し、その上蹂躙されている側の存在に気がついていません。この自分自身の振る舞いを気が付かない点については、同じ章の冒頭に「汝自身を知れ」という警句でもって語られているのですが、作品の中のコペル君はその本当の意味をまだ把握しきれていません。いっぽう賢明な読者は実はこの物語の主人公はコペル君ではなくして自分自身であったことに気がつくのではないでしょうか。
吉野源三郎のもくろみとしては、おそらく、読者にコペル君の暴君ぶりに気づいてもらった上で、「汝自身を知れ」の警句に従って読者自身がそれぞれ我が身を反省し、満州の問題に思いを馳せて欲しいと願ったのだと思います。
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facebook髙橋 眞人さん投稿記事
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正直さは最善の方針である。 今日すべきことを明日に延期するなかれ。
もし本当に何かをしたいのなら、自分でするのが最善である。
どんなに小さくても、優しさの行為は決して無駄にはならない。
全員を喜ばせてみなさい。すると、あなたはだれも喜ばせられないだろう。
感謝は、高潔な魂の証である。
ゆっくりで揺るぎない者が競争に勝つ。
自分の運命を甘受しなさい。あらゆる面で頂点に立つなど、人間にできることではない。
こぼれた牛乳を嘆くな。偉大な決意はほとんどの障害に打ち勝つことができる。
今いる場所に不満を感じている者は、別の場所に移っても、まず満足は得られない。
団結は力なり。すべての人は、多かれ少なかれ自分の運命の主人である。
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災難によって、人は学ぶ。真の友情は、災難に遭遇したときに初めてわかる。
疑わしい友人は明らかな敵よりも悪い。危険が遠くにあるときに勇敢になるのは簡単である。
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たとえ彼が真実を話しても、嘘つきは信用されない。
すべての人は、足りないものを手に入れるよりも、失ったものを取り戻すことに関心がある。
不幸な人々は、さらに不幸な人々によって慰められる。
難事に際しては人の忠告を信ずるなかれ。危機においては、助言ではなく援助を与えなさい。
短くて楽な人生より、長くて苦しい人生のほうが良い。太った奴隷になるより、自由で餓死するほうが良い。外観は、しばしば見せかけだけである。産まれる前のニワトリを数えるな。
親しみやすさは軽蔑を生む。不幸は友人の誠実さを量る。賢者は、危ういときには何も言わない。
金持ちで力のある人には注意しなさい。彼らはあなたのためには何もしないだろうから。
羊の皮の中にいる狼に気をつけなさい。曖昧さは安全をもたらすことがある。
外見は良い洋服で偽装できるが、愚かな言葉は馬鹿であることを露見させる。
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最も大きい声で泣く人は、必ずしも最も傷ついている人とは限らない。
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